2013年放送関係物故者
「愛のコリーダ」「戦場のメリークリスマス」などで日本映画の世界的評価を高めた映画監督の大島渚(おおしま・なぎさ)氏が 1月15日、肺炎のため死去。80歳だった。( 1/16 読売新聞朝刊より)
京都府出身。1954年、京大卒業後、松竹大船撮影所に入社。大庭秀雄監督らの助監督を務めた後、59年に「愛と希望の街」で監督デビュー。続く「青春残酷物語」などで、篠田正浩監督らと共に「松竹ヌーベルバーグ」と呼ばれ、日本映画界に新風を送り込んだ。
安保闘争を背景にした「日本の夜と霧」の上映中止を巡って会社側と対立し、61年に松竹を退社。妻で女優の小山明子さんらと共に独立プロ「創造社」を創設。「絞死刑」など日本社会に対する問題提起に満ちた作品を発表した。
76年には昭和初期の猟奇殺人事件「阿部定事件」を題材にした日仏合作の「愛のコリーダ」をカンヌ国際映画祭監督週間の開幕作品として発表、世界的評価を確立する一方で、性描写問題に一石を投じた。さらに、78年の「愛の亡霊」では同映画祭監督賞を受賞。80年代も「戦場のメリークリスマス」「マックス、モン・アムール」と国際的な話題作を手がけた。
96年に講演のため訪れていたロンドンの空港で脳出血を起こして倒れた後、約3年の療養を経て復帰した。99年、時代劇「御法度」を完成させ、翌年のカンヌ映画祭コンペティション部門に参加。これが最後の作品となった。
コメンテーターとしてのテレビ出演も多く、社会に対する怒りを隠さない直言でお茶の間に親しまれた。
80年から96年まで、日本映画監督協会理事長。2000年に紫綬褒章を受章している。
アニメ「エイトマン」の主題歌や「さすらい」などのヒット曲で知られる元歌手の克美しげる(かつみ・しげる)氏が 2月27日、脳出血のため死去。75歳だった。(10/ 3 読売新聞朝刊より)
宮崎県出身。1960年代初めに「霧の中のジョニー」などのヒット曲を飛ばし、64年から2年連続でNHK紅白歌合戦に出場した。76年に愛人女性を殺害。懲役10年の判決を受け服役。89年には、覚醒剤取締法違反で実刑判決を受けた。
アニメ「ルパン三世」の銭形警部の声で知られる俳優の納谷悟朗(なや・ごろう)氏が 3月 5日、慢性呼吸不全のため死去。83歳だった。( 3/12 読売新聞朝刊より)
北海道出身。立命館大学を中退後、劇団「東童」を経て、「テアトル・エコー」の中心的な俳優、演出家として活躍。ニール・サイモンの「サンシャイン・ボーイズ」などに出演した。
声優としては、米テレビ映画シリーズ「コンバット」のヘンリー少尉をはじめ、チャールトン・ヘストン、ジョン・ウェイン、クラーク・ゲーブルなど大物俳優の吹き替えを担当した。
アニメでは、銭形警部のほか、「宇宙戦艦ヤマト」の沖田艦長としても有名。特撮番組「仮面ライダー」では悪の秘密結社ショッカーの首領の声も担当した。
「飢餓海峡」「神々の深き欲望」など数々の映画で重厚な演技を見せ、「釣りバカ日誌」シリーズではコミカルな役柄で親しまれた俳優の三國連太郎(みくに・れんたろう)氏が 4月14日死去。90歳だった。( 4/15 読売新聞夕刊より)
群馬県出身。静岡県で育ち、1951年、木下恵介監督の「善魔」でデビュー。二枚目スターとして注目され、翌年の「本日休診」で演技派として頭角を現した。以後、「警察日記」「ビルマの竪琴」「異母兄弟」「にっぽん泥棒物語」「復讐するは我にあり」など、市川崑、今村昌平ら様々な名監督の作品に出演し、実力を示した。中でも、65年の内田吐夢監督「飢餓海峡」では、過去に殺人を犯した実業家役を熱演し、映画賞を総なめにした。
その後も、「利休」「息子」「ひかりごけ」「マルサの女2」などの話題作で存在感を発揮し続けた。西田敏行さんとコンビを組んだ「釣りバカ日誌」では、上司の社長スーさん役を演じ、シリーズは22作を数えた。一昨年の「大鹿村騒動記」では、長男で俳優の佐藤浩市さんと共演し、話題となった。
また、映画製作にも情熱を注ぎ、自ら脚本を書いた念願の企画「親鸞・白い道」を監督し、87年のカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した。84年に紫綬褒章、93年に勲四等旭日小綬章。
特殊撮影監督のレイ・ハリーハウゼン氏が 5月 7日死去。92歳だった。( 5/ 8 読売新聞夕刊より)
米ロサンゼルス出身。ミニチュアの人形を1コマずつポーズを変えて連続撮影し、動いているように見せる「ストップ・モーション・アニメーション」の手法を確立。映画「シンドバッド7回目の航海」(1958年)や「タイタンの戦い」(81年)などの特殊撮影を担当した。92年にアカデミー特別賞を受賞した。
元東映プロデューサーの平山亨(ひらやま・とおる)氏が 7月31日、心不全のため死去。84歳だった。( 8/ 1 読売新聞夕刊より)
1954年東映入社。71年、プロデューサーとしてテレビ番組「仮面ライダー」を大ヒットさせ、以後も同シリーズを手がけた。ほかにも「秘密戦隊ゴレンジャー」「仮面の忍者 赤影」「ジャイアントロボ」など多くの作品の製作を手がけ、特撮ヒーロー番組の礎を築いた。
日本音楽界の重鎮で、桐朋学園大学長を長く務めた作曲家の三善晃(みよし・あきら)氏が10月 4日、心不全のため死去。80歳だった。(10/ 6 読売新聞朝刊より)
東京都出身。3歳からピアノを学び、作曲家の平井康三郎さんに師事。東京大学文学部在学中の1953年に、「クラリネット、ファゴット、ピアノのためのソナタ」で日本音楽コンクール作曲部門1位を獲得した。54年には「ピアノと管弦楽のための協奏交響曲」で尾高賞などを受賞し、一躍注目を集めた。
55〜57年にフランス政府給費留学生として渡仏し、アカデミックな作曲技法を身につけた。大規模な管弦楽曲や合唱曲を得意とし、西洋と日本の音楽語法の対比を生かした作品を発表した。代表作に「レクイエム」「詩篇」「響紋」など。99年に「焉歌・波摘み」で、史上最多となる6回目の尾高賞を受賞。同年初演されたオペラ「遠い帆」でサントリー音楽賞を贈られた。またTVアニメ「赤毛のアン」主題歌も手がけた。
74年から95年まで桐朋学園大学長、96年から2004年まで東京文化会館長を務めた。99年、日本芸術院会員。2001年に文化功労者。
加山雄三さんのヒット曲「君といつまでも」の作詞や、越路吹雪さんの「愛の讃歌」の訳詩で知られた女性作詞家の草分けで文化功労者の岩谷時子(いわたに・ときこ)さんが10月25日死去。97歳だった。(10/28 読売新聞夕刊より)
現在の韓国・ソウル生まれ。1939年、宝塚歌劇団の出版部に入り、歌劇団に在籍していた越路さんと出会った。51年、越路さんと共に東宝に移り、マネージャー業の傍ら、越路さんの歌うシャンソンの訳詞を始めた。「愛の讃歌」「ラストダンスは私に」「サン・トワ・マミー」「ろくでなし」などを世に出し、親しみやすい訳詞で、日本でもシャンソンを大衆の歌として根づかせた。
「すべては越路さんとの出逢いが始まりだった」と後年、振り返り、越路さんが80年に亡くなるまで、2人の友情は続いた。
訳詞からオリジナルの作詞を行うようになり、多数の作品を生み出した。加山さんとのコンビでは「君といつまでも」「ぼくの妹に」など広く知られる歌が多い。また、作曲家の宮川泰さん、いずみたくさんらと組んだヒット曲も数多い。64年にザ・ピーナッツの「ウラ・セラ・ディ東京」などで日本レコード大賞作詞賞に輝いた。66年にも「君といつまでも」などで2度目の同賞受賞。69年に佐良直美さんが歌った「いいじゃないの幸せならば」は、同大賞に選ばれている。
若々しい感覚に彩られた美しい日本語。そして、聴き手に優しく語りかけるような親密なムードの詞が特徴的だった。本人も「私は作曲されたメロディーか歌い手を心から愛さなければ詞が書けない」と記したように、歌手や作曲家の個性を生かした作品で知られた。
ミュージカルの訳詞にも積極的に取り組んだ。「ジーザス・クライスト・スーパースター」「レ・ミゼラブル」「ミス・サイゴン」など話題作を数多く手がけた。一方、後継者の育成にも力を入れ、「岩谷時子音楽文化振興財団」を設立。音楽・演劇界の発展に功績のあった人物を顕彰するとともに、助成事業を行っていた。
ほほ笑みを絶やさない穏やかな人柄で知られた。2009年には文化功労者に選ばれた。
プロ野球の読売巨人軍で活躍し、「打撃の神様」と呼ばれ、現役引退後は監督として巨人を日本シリーズ9連覇に導いた川上哲治(かわかみ・てつはる)氏が10月28日、老衰のため死去。93歳だった。(10/31 読売新聞朝刊より)
1938年に熊本工から巨人に入団した。投手として入団したが、打力を買われて一塁手に転向し、「弾丸ライナー」と名付けられた鋭い打球で安打を量産。2年目に19歳で首位打者を獲得するなど、不動の4番としてプレーし、56年5月にはプロ野球初の2000安打を達成した。
58年、立教大から入団した長嶋茂雄選手(現巨人終身名誉監督)に4番を譲り、現役を引退し、背番号16は永久欠番となった。コーチを経て61年シーズンから監督に就任すると、チームプレーを重視した戦術への転換を図り、6年ぶりに日本一を奪回した。65年からは王貞治選手(現ソフトバンク球団会長)、長嶋選手の「ONコンビ」を中心に、「V9」(セ・リーグ、日本シリーズ9連覇)という偉業を成し遂げた。
10連覇を逃した74年に現役引退を表明した長嶋氏に監督を譲って勇退。指揮を執った14年間で、巨人は11度、日本一に輝いた。
勇退後は、野球解説を務める傍ら、少年野球教室の講師として全国を歩き、野球の裾野拡大にも尽力した。65年に野球殿堂入り。92年には、野球界から初めて文化功労者に選ばれた。
「東京だョおっ母さん」など数多くのヒット曲で知られ、「お千代さん」の愛称で親しまれた歌手の島倉千代子(しまくら・ちよこ)さんが11月 8日、肝臓がんのため死去。75歳だった。(11/ 9 読売新聞朝刊より)
東京都生まれ。日本音楽高校在学中の1954年にコロムビア全国歌謡コンクールで優勝。翌年のデビュー曲「この世の花」がヒットして、一気にスター歌手となった。以後、「からたち日記」「恋しているんだもん」「人生いろいろ」など数多くのヒット曲を出した。
NHK紅白歌合戦には、計35回出場した。東京・新宿コマ劇場での座長公演は72年以来、25年連続で行うなど、長く人気を保ち、99年には紫綬褒章を受けた。
女優としても活躍し、59年の「からたち日記」をはじめ、数多くの映画に出演したほか、62年にはTBS系の連続ドラマ「あの橋の畔で」に出演した。
ナレーターの来宮良子(きのみや・りょうこ)さんが11月25日、多臓器不全のため死去。82歳だった。(12/ 5 読売新聞夕刊より)
テレビ番組のナレーションで活躍。1106回の長寿番組となった「演歌の花道」(テレビ東京)、「いつみても波瀾万丈」(日本テレビ)、「たけしの本当は怖い家庭の医学」(テレビ朝日)などの声を担当した。
「君は天然色」「幸せな結末」などのヒット曲で知られるミュージシャンの大瀧詠一(おおたき・えいいち)氏が12月30日、解離性動脈瘤のため死去。65歳だった。(14/ 1/ 1 読売新聞朝刊より)
岩手県出身。1970年に細野晴臣さん、松本隆さん、鈴木茂さんと組んだバンド「はっぴいえんど」でデビュー。同バンドは日本語ロックの先駆けとされ、後進に大きな影響を与えた。
その後、プロデューサーやソロアーティストとして活躍。81年には「君は天然色」がヒット。同曲を収録したアルバム「A LONG VACATION」(日本レコード大賞ベスト・アルバム賞)はミリオンセラーに。97年にはテレビドラマの主題歌「幸せな結末」がヒットした。作曲家としても、松田聖子さん「風たちぬ」、小林旭さん「熱き心に」を提供。海外のポップスから日本の歌謡曲まで幅広い知識を持ち、しゃれた作風で知られた。
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