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選評  出版関係物故者  放送関係物故者

対象作品は発表された年ではなく、サイト主宰者が実際に目にした年のものとしています。



部門ノミネート作品ベスト作品
図書部門 小説の部 「青春の門 挑戦篇」「五番目のサリー」 「五番目のサリー」
漫画の部 「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」「鉄人28号 原作完全版」 該当作なし
映像部門 映画の部 「レッドクリフ PartU」「沈まぬ太陽」「おとうと」「THE LAST MESSAGE 海猿」 該当作なし
テレビドラマの部 「遺恨あり 明治十三年最後の仇討」「3年B組金八先生 ファイナル」「陽はまた昇る」「坂の上の雲 第3部」 該当作なし
アニメーションの部 「ちびまる子ちゃん」「クレヨンしんちゃん」 該当作なし

2011年選評

与志田選2011年総括。7月の地デジ移行によって、新聞のテレビ欄も、そこに載っている略記号も、それまでとは様変わりしてしまい、いまだに馴染めません。放送技術は進歩しているはずなのに、番組の内容はそれと反比例するかのようにますますつまらなくなっていくのはなぜでしょう…。映画もテレビも絶対に見たいと思えるタイトルが確実に少なくなってきています。( 12/01/07 )

<図書部門>
『青春の門 挑戦篇』(五木寛之・講談社刊)
直前の第六部<再起篇>を読んだのが1981年。それからじつに30年という月日を経て続編が読める仕合せを感じました。物語の中はもちろん、自分にとってもあのころの青春がまだ続いているんだなーと。おそらくこの感慨を自らの生涯でもう一度味わうことは難しいでしょう。それだけに文庫版で700ページというボリュームながら、読み終えてしまうのがものすごくもったいないことのように感じられました。
『五番目のサリー』(ダニエル・キイス/小尾芙佐訳・早川書房刊)
純粋に物語として非常に面白く、これまた読み終えてしまうのがもったいなく感じられる作品でした。読み進めるほどに先が気になって結局は一気に読んでしまいましたが。とにかく主人公サリーの日常が切なく愛おしく感じられました。続けて読んだ『24人のビリー・ミルガン』はその世間的評価とは裏腹に、事情と状況がいまひとつ理解しづらく、それほどの印象は残りませんでした。
『鉄人28号 原作完全版』(横山光輝・潮出版社刊)
かねてより連載当事のオリジナル版を読んでみたいと思っていましたが、自分の世代にとってはやはり光文社のカッパコミクス版の印象が鮮烈で、逆に一種の違和感を覚えながら全巻を通して読みました。驚いたのはエピソードの切れ目がほとんどなく、延々と物語が続けられている点でした。ストーリーとコマ運びを再構成して、テンポのよいアクション劇に仕上げられたカッパコミクス版はやはり傑作中の傑作です。

<映像部門>
『沈まぬ太陽』( 2/11・日本テレビ系)
―2009年"沈まぬ太陽"製作委員会 渡辺謙 若松節朗監督
時間的制約のある劇場映画で山崎豊子作品を映像化するのはやはり難しいと思います。配役はそのままに連続ドラマでやってほしいです。
『遺恨あり 明治十三年最後の仇討』( 2/26・テレビ朝日系)
これはよかった。今期もっとも充実していたテレビドラマです。登場人物の置かれた立場や心情が無駄なくきちんと描かれ、それぞれの思いが交錯する骨太の人間ドラマに仕上げられていました。後藤法子ってちょっと注目株ですね。『チーム・バチスタ』シリーズも面白いし、大家面している田渕何某よりよっぽどうまいじゃないですか。
『3年B組金八先生 ファイナル』( 3/27・TBSテレビ系)
本当に終わってしまったのか。それともまた単発枠でやるだろうか。今期は『水戸黄門』も終了したし、内容的なものは別として長年続いてきたタイトルが終了してしまうのはものすごく淋しいです。それに代われる面白いタイトルが今ほかにあるかというと決してそんなことはないし…。
『陽はまた昇る』( 7/21〜 9/15・テレビ朝日系)
同スタッフおよびキャストによる単発ドラマ『最後の晩餐』のラストシーンが妙だなと思っていたら、それがここにつながっていたという凝った仕掛け。井上由美子の脚本と配役がよく、さらに盛り上がるであろう要素を抱えながら編成の関係なのか放送回数が全9回と少なかったのが残念です。


2011年出版関係物故者

漫画家の村野守美(むらの・もりび)氏が 3月 7日、心不全のため死去。69歳だった。( 3/ 9 読売新聞朝刊より)
代表作に「草笛の季節」「垣根の魔女」など。手塚治虫に師事し、「千夜一夜物語」の原画担当など「虫プロ」創設時のアニメーターとしても活躍した。

日本SF小説の草分けとなった作家の小松左京(こまつ・さきょう)氏が 7月26日、肺炎のため死去。80歳だった。( 7/29 読売新聞朝刊より)
大阪市生まれ。京都大在学中から作家の高橋和巳と同人誌で創作を始める。経済誌の編集やラジオ台本作家などを経て、1962年「SFマガジン」からSF作家としてデビュー。64年、細菌による人類滅亡を描いた「復活の日」で注目を集めた。地殻変動によって日本列島が壊滅していく73年の長編「日本沈没」(日本推理作家協会賞)は400万部を超えるベストセラーとなり、映画も大ヒットを記録。85年には「首都消失」で日本SF大賞を受賞。2006年には谷甲州氏と「日本沈没 第二部」を出版した。
大阪を拠点に活動し、大阪万博ではテーマ館サブプロデューサーとして活躍。阪神大震災後は復興に向けて都市論、情報論を積極的に展開した。代表作は他に「日本アパッチ族」「エスパイ」「さよならジュピター」などがある。

ユーモアあふれる"どくとるマンボウ"シリーズや、大河小説「楡家の人びと」で知られる作家、芸術院会員の北杜夫(きた・もりお)氏が10月24日、腸閉塞のため死去。84歳だった。(10/26 読売新聞夕刊より)
近代短歌を代表する歌人、斎藤茂吉の次男として東京に生まれた。旧制松本高を経て東北大医学部に進学。卒業後の1954年、初の長編「幽霊」を自費出版した。
60年には、水産庁の調査船に船医として半年間乗った体験をユーモアを交えて描いた「どくとるマンボウ航海記」を発表。以後、「昆虫記」「青春記」などマンボウものを次々に出版して人気を博した。
同年、ナチスと精神病の問題を扱った「夜と霧の隅で」で芥川賞。64年には斎藤家三代の歴史を描いた「楡家の人びと」を刊行し、毎日出版文化賞を受賞した。「船乗りクプクプの冒険」「さびしい王様」など、大人も子供も楽しめる童話でも親しまれた。「青年茂吉」など父の生涯を追った評伝4部作で98年、大仏次郎賞を受けた。


2011年放送関係物故者

脚本家の大野靖子(おおの・やすこ)さんが 1月 6日、卵巣がんのため死去。82歳だった。( 2/21 読売新聞夕刊より)
1973年、女性脚本家で初めて、NHK大河ドラマ「国盗り物語」を書いた。ほかにテレビドラマ「三匹の侍」「花神」「ザ・商社」「天城越え」、映画「居酒屋兆治」など。97年、紫綬褒章、2003年、旭日小綬章。

数多くのテレビドラマの演出を手がけ、NHKの看板ディレクターだった演出家の和田勉(わだ・べん)氏が 1月14日、食道上皮がんのため死去。80歳だった。( 1/18 読売新聞夕刊より)
三重県松阪市に生まれ、1953年に早稲田大学を卒業し、NHKに入局。大阪放送局に配属され、「うどん屋」でディレクターとしてデビュー。早くから才能を発揮し、57年の「石の庭」を始め、「日本の日蝕」などで芸術祭奨励賞、78年の「天城越え」、84年の「心中宵庚申」で芸術祭大賞を受賞した。
杉良太郎さんの出世作となった67年の「文五捕物絵図」で人気を集め、視聴率が低迷していた68年の大河ドラマ「竜馬がゆく」を途中から演出してヒット。松本清張原作の「けものみち」「ザ・商社」、向田邦子脚本の「阿修羅のごとく」のほか、城山三郎原作の「価格破壊」など経済ドラマも手がけた。丹念な心理描写や俳優のクローズアップを多用する演出法で知られ、夏目雅子、浅丘ルリ子、名取裕子さんら多くの女優の魅力も引き出した。87年にNHKを退職。民放に舞台を移して、舞台や映画にも挑戦。だじゃれを連発して「ガハハおじさん」と親しまれ、タレントとしてもバラエティー番組に数多く出演した。

劇作家兼演出家の小幡欣治(おばた・きんじ)氏が 2月17日、肺がんのため死去。82歳だった。( 2/18 読売新聞夕刊より)
劇団炎座時代に書いた「畸型児」で1956年、新劇戯曲賞を受賞。テレビの仕事を経て、劇作家の菊田一夫に誘われ、東京・日比谷の芸術座での公演を中心に商業演劇の脚本を手がけ始めた。「三婆」「あかさたな」などの軽妙な喜劇で多くのヒットを生み、山田五十鈴、森光子さんら人気女優を主役とする東宝演劇のスタイルを確立。1995年に紫綬褒章を受章した。

アメリカの映画監督、シドニー・ルメット氏が 4月 9日、リンパ腫のため死去。86歳だった。( 4/11 読売新聞朝刊より)
個人の良心を問う社会派サスペンスで知られる。代表作にベルリン国際映画祭金熊賞を受賞した「十二人の怒れる男」(1957年)のほか、「オリエント急行殺人事件」(74年)、「評決」(82年)など。

テレビアニメ「あしたのジョー」などで知られるアニメーション監督の出崎統(でざき・おさむ)氏が 4月17日、肺がんのため死去。67歳だった。( 4/18 読売新聞夕刊より)
1963年に旧虫プロダクションに入社。「鉄腕アトム」の作画に参加。フリーになった後、テレビアニメ「ムーミン」「ベルサイユのばら」の演出などを手がけ、「エースをねらえ!」「とっとこハム太郎」の映画版などを監督した。画面分割や光を効果的に使った映像が高く評価された。

作曲家の宇野誠一郎(うの・せいいちろう)氏が 4月26日、心不全のため死去。84歳だった。( 5/11 読売新聞夕刊より)
「ムーミン」「一休さん」「ふしぎなメルモ」などのアニメ作品の主題歌を作曲した。人形劇「ひょっこりひょうたん島」、舞台「紙屋町さくらホテル」「夢の裂け目」など劇作家井上ひさし作品の劇中歌を多く手がけた。第15回読売演劇大賞の優秀スタッフ賞を受賞した。

アメリカの俳優、ピーター・フォーク氏が 6月23日死去。83歳だった。( 6/25 読売新聞夕刊より)
ニューヨーク出身。大学卒業後、1956年にブロードウェーで舞台デビュー。60年の映画「殺人会社」、61年の「ポケット一杯の幸福」でアカデミー賞助演男優賞候補に選ばれた。
持ち味を最も発揮したのが68年から放送の「刑事コロンボ」。もじゃもじゃの髪の毛に赤ら顔、よれよれのレインコートを羽織って手には安っぽい葉巻というさえない風貌ながら、犯人をじわじわと追い詰めて難事件を解決していくロサンゼルス市警の敏腕刑事役を好演した。ドラマは日本でも小池朝雄さんの吹き替えとともに人気を呼び、得意のせりふ「うちのかみさんがね」は流行語となった。

バラエティー番組や歌番組の軽妙な司会で、「マエタケ」の愛称で人気を集めたタレントの前田武彦(まえだ・たけひこ)氏が 8月 5日、肺炎のため死去。82歳だった。( 8/ 6 読売新聞朝刊より)
1950年代にテレビの放送作家として芸能界に入り、当初はNHKの番組を中心に台本を執筆。その後、民放のテレビ、ラジオに活動の場を広げた。大橋巨泉さんとともに司会を務めた日本テレビ系のバラエティー番組「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」(1969〜71年)をはじめ、69〜70年にはお笑い番組「笑点」の2代目司会者や、68年に始まったフジテレビ系の歌番組「夜のヒットスタジオ」の初代司会者と、幅広いジャンルの番組にかかわった。
また、俳優として「男はつらいよ」「釣りバカ日誌」などの映画に出演した。

歌手のジョー山中(じょー・やまなか)氏が 8月 7日、肺がんのため死去。64歳だった。( 8/ 8 読売新聞朝刊より)
ロックバンド「フラワー・トラヴェリン・バンド」に参加。カナダでも活動、日本のロックの海外進出の先駆的存在となった。1977年に自身も出演した映画「人間の証明」の主題歌をソロ歌手としてヒットさせた。

声優の滝口順平(たきぐち・じゅんぺい)氏が 8月29日、胃がんのため死去。80歳だった。( 8/30 読売新聞朝刊より)
のんびりとした独特の口調で、1977年のフジテレビ系アニメ「ヤッターマン」のとぼけた敵役・ドクロベエなどの声を演じ、人気を集めた。92年から続く日本テレビ系「ぶらり途中下車の旅」のナレーションでも親しまれた。ラジオ東京(現TBS)の放送劇団に1期生で入団し、数多くのラジオドラマにも出演した。

ロック歌手の柳ジョージ(やなぎ・じょーじ)氏が10月10日、末期腎不全のため死去。63歳だった。(10/14 読売新聞夕刊より)
横浜生まれ。ブルースの影響を受けた渋い歌声で知られる。ゴールデン・カップスを経て、1970年代半ば「柳ジョージ&レイニーウッド」を結成し、「雨に泣いている」「微笑の法則」などをヒットさせた。82年から主にソロとして活動。2005年に、レイニーウッドを再結成した

脚本家の石堂淑朗(いしどう・としろう)氏が11月 1日、膵臓がんのため死去。79歳だった。(12/ 1 読売新聞夕刊より)
広島県出身。松竹大船撮影所に入り、1960年、「太陽の墓場」で脚本家デビュー。大島渚さんらと共に、「松竹ヌーベルバーグ」と呼ばれた60年代の映画革新運動で中心的役割を果たし、テレビドラマの脚本も多く手がけた。代表作に、映画「日本の夜と霧」「黒い雨」など。

アニメーターの荒木伸吾(あらき・しんご)氏が12月 1日、急性循環不全のため死去。72歳だった。(12/ 2 読売新聞夕刊より)
1960年代からアニメーターとして活躍し、「聖闘士星矢」「キューティーハニー」「バビル2世」など多くの作品のキャラクターデザインや作画監督を担当した。

脚本家の市川森一(いちかわ・しんいち)氏が12月10日、肺がんのため死去。70歳だった。(12/10 読売新聞夕刊より)
長崎県出身。1966年に円谷プロによる「快獣ブースカ」で脚本家デビュー。引き続き同プロの「ウルトラセブン」などを手がけて頭角を現した。その後も「傷だらけの天使」(日本テレビ、74〜75年)や第1回向田邦子賞を受賞した「淋しいのはお前だけじゃない」(TBS、82年)などヒット作、秀作を連発した。
一方で、NHKの大河ドラマ「黄金の日日」(78年)、「山河燃ゆ」(84年)、「花の乱」(94年)で脚本を担当するなど、スケールの大きな作品でも力量を発揮。日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受賞した88年公開の「異人たちとの夏」や、2000年公開の「長崎ぶらぶら節」など映画脚本でも知られた。

映画監督の森田芳光(もりた・よしみつ)氏が12月20日、急性肝不全のため死去。61歳だった。(12/21 読売新聞夕刊より)
東京都出身。日大芸術学部時代から自主映画を撮り、1981年、落語家を主人公にした「の・ようなもの」で劇場映画デビュー。83年、現代の家族像を皮肉を込めて描いた松田優作さん主演の「家族ゲーム」で、芸術選奨新人賞などを受賞、国内外で高い評価を得た。
以後、「ときめきに死す」「メイン・テーマ」「そろばんずく」「キッチン」など、アイドルやミュージシャンを主演にした作品を撮る一方、夏目漱石の小説を映画化した松田さん主演の「それから」(85年)では、独自の映像感覚が高く評価された。その後も、「(ハル)」「模倣犯」「阿修羅のごとく」「武士の家計簿」などの話題作を次々と発表した。渡辺淳一さんの原作を映画化した97年の「失楽園」は社会現象にもなった。