2011年放送関係物故者
脚本家の大野靖子(おおの・やすこ)さんが 1月 6日、卵巣がんのため死去。82歳だった。( 2/21 読売新聞夕刊より)
1973年、女性脚本家で初めて、NHK大河ドラマ「国盗り物語」を書いた。ほかにテレビドラマ「三匹の侍」「花神」「ザ・商社」「天城越え」、映画「居酒屋兆治」など。97年、紫綬褒章、2003年、旭日小綬章。
数多くのテレビドラマの演出を手がけ、NHKの看板ディレクターだった演出家の和田勉(わだ・べん)氏が 1月14日、食道上皮がんのため死去。80歳だった。( 1/18 読売新聞夕刊より)
三重県松阪市に生まれ、1953年に早稲田大学を卒業し、NHKに入局。大阪放送局に配属され、「うどん屋」でディレクターとしてデビュー。早くから才能を発揮し、57年の「石の庭」を始め、「日本の日蝕」などで芸術祭奨励賞、78年の「天城越え」、84年の「心中宵庚申」で芸術祭大賞を受賞した。
杉良太郎さんの出世作となった67年の「文五捕物絵図」で人気を集め、視聴率が低迷していた68年の大河ドラマ「竜馬がゆく」を途中から演出してヒット。松本清張原作の「けものみち」「ザ・商社」、向田邦子脚本の「阿修羅のごとく」のほか、城山三郎原作の「価格破壊」など経済ドラマも手がけた。丹念な心理描写や俳優のクローズアップを多用する演出法で知られ、夏目雅子、浅丘ルリ子、名取裕子さんら多くの女優の魅力も引き出した。87年にNHKを退職。民放に舞台を移して、舞台や映画にも挑戦。だじゃれを連発して「ガハハおじさん」と親しまれ、タレントとしてもバラエティー番組に数多く出演した。
劇作家兼演出家の小幡欣治(おばた・きんじ)氏が 2月17日、肺がんのため死去。82歳だった。( 2/18 読売新聞夕刊より)
劇団炎座時代に書いた「畸型児」で1956年、新劇戯曲賞を受賞。テレビの仕事を経て、劇作家の菊田一夫に誘われ、東京・日比谷の芸術座での公演を中心に商業演劇の脚本を手がけ始めた。「三婆」「あかさたな」などの軽妙な喜劇で多くのヒットを生み、山田五十鈴、森光子さんら人気女優を主役とする東宝演劇のスタイルを確立。1995年に紫綬褒章を受章した。
アメリカの映画監督、シドニー・ルメット氏が 4月 9日、リンパ腫のため死去。86歳だった。( 4/11 読売新聞朝刊より)
個人の良心を問う社会派サスペンスで知られる。代表作にベルリン国際映画祭金熊賞を受賞した「十二人の怒れる男」(1957年)のほか、「オリエント急行殺人事件」(74年)、「評決」(82年)など。
テレビアニメ「あしたのジョー」などで知られるアニメーション監督の出崎統(でざき・おさむ)氏が 4月17日、肺がんのため死去。67歳だった。( 4/18 読売新聞夕刊より)
1963年に旧虫プロダクションに入社。「鉄腕アトム」の作画に参加。フリーになった後、テレビアニメ「ムーミン」「ベルサイユのばら」の演出などを手がけ、「エースをねらえ!」「とっとこハム太郎」の映画版などを監督した。画面分割や光を効果的に使った映像が高く評価された。
作曲家の宇野誠一郎(うの・せいいちろう)氏が 4月26日、心不全のため死去。84歳だった。( 5/11 読売新聞夕刊より)
「ムーミン」「一休さん」「ふしぎなメルモ」などのアニメ作品の主題歌を作曲した。人形劇「ひょっこりひょうたん島」、舞台「紙屋町さくらホテル」「夢の裂け目」など劇作家井上ひさし作品の劇中歌を多く手がけた。第15回読売演劇大賞の優秀スタッフ賞を受賞した。
アメリカの俳優、ピーター・フォーク氏が 6月23日死去。83歳だった。( 6/25 読売新聞夕刊より)
ニューヨーク出身。大学卒業後、1956年にブロードウェーで舞台デビュー。60年の映画「殺人会社」、61年の「ポケット一杯の幸福」でアカデミー賞助演男優賞候補に選ばれた。
持ち味を最も発揮したのが68年から放送の「刑事コロンボ」。もじゃもじゃの髪の毛に赤ら顔、よれよれのレインコートを羽織って手には安っぽい葉巻というさえない風貌ながら、犯人をじわじわと追い詰めて難事件を解決していくロサンゼルス市警の敏腕刑事役を好演した。ドラマは日本でも小池朝雄さんの吹き替えとともに人気を呼び、得意のせりふ「うちのかみさんがね」は流行語となった。
バラエティー番組や歌番組の軽妙な司会で、「マエタケ」の愛称で人気を集めたタレントの前田武彦(まえだ・たけひこ)氏が 8月 5日、肺炎のため死去。82歳だった。( 8/ 6 読売新聞朝刊より)
1950年代にテレビの放送作家として芸能界に入り、当初はNHKの番組を中心に台本を執筆。その後、民放のテレビ、ラジオに活動の場を広げた。大橋巨泉さんとともに司会を務めた日本テレビ系のバラエティー番組「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」(1969〜71年)をはじめ、69〜70年にはお笑い番組「笑点」の2代目司会者や、68年に始まったフジテレビ系の歌番組「夜のヒットスタジオ」の初代司会者と、幅広いジャンルの番組にかかわった。
また、俳優として「男はつらいよ」「釣りバカ日誌」などの映画に出演した。
歌手のジョー山中(じょー・やまなか)氏が 8月 7日、肺がんのため死去。64歳だった。( 8/ 8 読売新聞朝刊より)
ロックバンド「フラワー・トラヴェリン・バンド」に参加。カナダでも活動、日本のロックの海外進出の先駆的存在となった。1977年に自身も出演した映画「人間の証明」の主題歌をソロ歌手としてヒットさせた。
声優の滝口順平(たきぐち・じゅんぺい)氏が 8月29日、胃がんのため死去。80歳だった。( 8/30 読売新聞朝刊より)
のんびりとした独特の口調で、1977年のフジテレビ系アニメ「ヤッターマン」のとぼけた敵役・ドクロベエなどの声を演じ、人気を集めた。92年から続く日本テレビ系「ぶらり途中下車の旅」のナレーションでも親しまれた。ラジオ東京(現TBS)の放送劇団に1期生で入団し、数多くのラジオドラマにも出演した。
ロック歌手の柳ジョージ(やなぎ・じょーじ)氏が10月10日、末期腎不全のため死去。63歳だった。(10/14 読売新聞夕刊より)
横浜生まれ。ブルースの影響を受けた渋い歌声で知られる。ゴールデン・カップスを経て、1970年代半ば「柳ジョージ&レイニーウッド」を結成し、「雨に泣いている」「微笑の法則」などをヒットさせた。82年から主にソロとして活動。2005年に、レイニーウッドを再結成した
脚本家の石堂淑朗(いしどう・としろう)氏が11月 1日、膵臓がんのため死去。79歳だった。(12/ 1 読売新聞夕刊より)
広島県出身。松竹大船撮影所に入り、1960年、「太陽の墓場」で脚本家デビュー。大島渚さんらと共に、「松竹ヌーベルバーグ」と呼ばれた60年代の映画革新運動で中心的役割を果たし、テレビドラマの脚本も多く手がけた。代表作に、映画「日本の夜と霧」「黒い雨」など。
アニメーターの荒木伸吾(あらき・しんご)氏が12月 1日、急性循環不全のため死去。72歳だった。(12/ 2 読売新聞夕刊より)
1960年代からアニメーターとして活躍し、「聖闘士星矢」「キューティーハニー」「バビル2世」など多くの作品のキャラクターデザインや作画監督を担当した。
脚本家の市川森一(いちかわ・しんいち)氏が12月10日、肺がんのため死去。70歳だった。(12/10 読売新聞夕刊より)
長崎県出身。1966年に円谷プロによる「快獣ブースカ」で脚本家デビュー。引き続き同プロの「ウルトラセブン」などを手がけて頭角を現した。その後も「傷だらけの天使」(日本テレビ、74〜75年)や第1回向田邦子賞を受賞した「淋しいのはお前だけじゃない」(TBS、82年)などヒット作、秀作を連発した。
一方で、NHKの大河ドラマ「黄金の日日」(78年)、「山河燃ゆ」(84年)、「花の乱」(94年)で脚本を担当するなど、スケールの大きな作品でも力量を発揮。日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受賞した88年公開の「異人たちとの夏」や、2000年公開の「長崎ぶらぶら節」など映画脚本でも知られた。
映画監督の森田芳光(もりた・よしみつ)氏が12月20日、急性肝不全のため死去。61歳だった。(12/21 読売新聞夕刊より)
東京都出身。日大芸術学部時代から自主映画を撮り、1981年、落語家を主人公にした「の・ようなもの」で劇場映画デビュー。83年、現代の家族像を皮肉を込めて描いた松田優作さん主演の「家族ゲーム」で、芸術選奨新人賞などを受賞、国内外で高い評価を得た。
以後、「ときめきに死す」「メイン・テーマ」「そろばんずく」「キッチン」など、アイドルやミュージシャンを主演にした作品を撮る一方、夏目漱石の小説を映画化した松田さん主演の「それから」(85年)では、独自の映像感覚が高く評価された。その後も、「(ハル)」「模倣犯」「阿修羅のごとく」「武士の家計簿」などの話題作を次々と発表した。渡辺淳一さんの原作を映画化した97年の「失楽園」は社会現象にもなった。
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