2008年放送関係物故者
脚本家の鳥海尽三(とりうみ・じんぞう)氏が 1月17日、肝臓がんのため死去。78歳だった。( 1/18 読売新聞朝刊より)
「昆虫物語みなしごハッチ」「科学忍者隊ガッチャマン」など、1970年代のテレビアニメの脚本を数多く手がけた。
映画監督の市川崑(いちかわ・こん)氏が 2月13日、肺炎のため死去。92歳だった。( 2/14 読売新聞朝刊より)
三重県出身。1948年、野上弥生子の「真知子」を映画化した「花ひらく」で監督デビュー。「足にさわった女」「プーサン」など、社会風刺をちりばめた都会派の喜劇を撮って注目された。「ビルマの竪琴」(56年)ではベネチア国際映画祭サン・ジョルジュ賞を受賞。「鍵」(59年)もカンヌ国際映画祭審査員特別賞に輝くなど、世界的に高い評価を得た。記録映画「東京オリンピック」(65年)も大ヒットした。
「細雪」「おはん」「映画女優」など、衰えを知らず次々と新作を発表。94年の「四十七人の刺客」は、東京国際映画祭審査員特別賞を受賞。2000年の第50回ベルリン映画祭では、映画界への貢献に対して特別功労賞が贈られた。06年には、自身のヒット作「犬神家の一族」を30年ぶりに再映画化、これが遺作となった。
映画のほか、「木枯し紋次郎」「丹下左膳」などテレビドラマの演出にも意欲的に取り組んだ。82年に紫綬褒章、88年に勲四等旭日小綬章を受賞。94年に文化功労者に選ばれている。
声優の広川太一郎(ひろかわ・たいちろう)氏が 3月 3日、がんのため死去。69歳だった。( 3/ 9 読売新聞朝刊より)
テレビで放送される洋画やアメリカ製ドラマの吹き替えを数多く手がけ、「007」シリーズのロジャー・ムーア、トニー・カーチス、ロバート・レッドフォードらの声を担当。アニメ「宇宙戦艦ヤマト」では古代守役を務めた。
コミカルな役での、ダジャレを交えた独特の語り口は「広川節」とも呼ばれ、映画「Mr.BOO!」シリーズのマイケル・ホイ、英国のコメディー番組「モンティ・パイソン」などで親しまれた。軽快な語り口で、ラジオのDJやテレビのナレーションでも活躍した。
作詞家の川内康範(かわうち・こうはん)氏が 4月 6日、慢性気管支肺炎のため死去。88歳だった。( 4/ 8 朝日新聞朝刊より)
北海道出身。炭鉱などで働いた後、上京して執筆活動を始める。58年から放送されたテレビドラマ「月光仮面」は白装束の正義の味方が、悪を懲らしめる筋書きで大ヒット。「愛の戦士レインボーマン」など子供向け番組のほか、鈴木清順監督の「東京流れ者」など映画の原作・脚本も多く書いた。75年から約20年にわたってテレビ放送された「まんが日本昔ばなし」では監修を務めた。
作詞家として「月光仮面」「まんが日本昔ばなし」の主題歌や、青江三奈「恍惚のブルース」「伊勢佐木町ブルース」、水原弘「君こそわが命」、森進一「花と蝶」「おふくろさん」、城卓矢「骨まで愛して」などを生み出した。60年には、和田弘とマヒナスターズ、松尾和子が歌った「誰よりも君を愛す」で第2回レコード大賞を獲得した。
また政界との親交も深く、戦没者の遺骨引き揚げ運動をはじめ、政治評論にも積極的にかかわった。
映画評論家の水野晴郎(みずの・はるお)氏が 6月10日、肝不全のため死去。76歳だった。( 6/11 朝日新聞夕刊より)
岡山県出身。郵便局勤務の傍ら慶大文学部の通信教育を受けた。56年に20世紀フォックス映画に入社、日本ユナイトを経て独立した。映画会社当時、「史上最大の作戦」「夕陽のガンマン」「真夜中のカーボーイ」などの名邦題を付けたことで知られた。
72〜97年の25年にわたり、日本テレビ系の映画番組「水曜ロードショー」(後に「金曜ロードショー」)の解説を務め、約1200本の映画を紹介した。柔らかい語り口でお茶の間の人気を博した。著書に「映画がいっぱい」など。
また、96年からはミステリー映画「シベリア超特急」シリーズを監督・主演。警察問題にも詳しく「世界の警察」などの著書もある。
歌手のフランク永井(ふらんく・ながい)氏が10月27日、肺炎のため死去。76歳だった。(11/ 3 読売新聞朝刊より)
宮城県出身。高校卒業後に上京し、米軍キャンプでジャズやポップスを歌い始めた。テレビののど自慢番組の出場がきっかけで、1955年にジャズ歌手として、「恋人よ我に帰れ」でデビューした。歌謡曲に転向した57年、「有楽町で逢いましょう」が大ヒットした。
その後も「夜霧に消えたチャコ」「東京ナイト・クラブ」「霧子のタンゴ」「おまえに」などを発表。61年には昭和初期の流行歌「君恋し」を改めてヒットさせ、第3回日本レコード大賞を受賞した。NHKの紅白歌合戦には、57年から26回の連続出場を果たした。
しかし85年10月、私生活のトラブルから、自殺を図った。一命は取り留めたものの脳障害を起こし、介護が必要な状態のまま、長くリハビリに励んでいた。71年に芸術選奨文部大臣賞を受けた。
ニュースキャスターの筑紫哲也(ちくし・てつや)氏が11月 7日、肺がんのため死去。73歳だった。(11/ 8 読売新聞朝刊より)
大分県出身。早稲田大卒業後、1959年に朝日新聞社に入社。政治部記者、ワシントン特派員などを経て、84年に「朝日ジャーナル」編集長に就任。「新人類」「元気印」などの流行語を生み出した。78年から82年にかけて、記者活動のかたわら、「日曜夕刊!こちらデスク」(テレビ朝日系)のキャスターも務めた。
89年に朝日新聞社を退社、TBS系「筑紫哲也NEWS23」のキャスターに転じた。雑誌的な切り口や街頭インタビュー、コラムコーナー「多事争論」など、従来の報道番組にはなかったスタイルで、テレビ朝日系「ニュースステーション」の久米宏さんとともに、新しい形のニュースキャスターとして人気を集めた。
今年5月、「テレビジャーナリズムの確立に多大の貢献をした」として日本記者クラブ賞。著書に「総理大臣の犯罪」「若者たちの神々」などがある。
特技監督の高野宏一(たかの・こういち)氏が11月30日、肺疾患のため死去。73歳だった。(12/ 5 読売新聞朝刊より)
1954年に東宝入社。「ゴジラ」シリーズなどに撮影助手として参加した後、円谷プロダクションで「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」などのヒーロー番組の特撮を手がけた。
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